2012年10月11日木曜日

「自我」 と 「所有」 についての備忘録

野田首相の “国連での演説” が、アメリカの “ニュース番組” で流れていた。



・・と言えばカッチョいいけど、


要は、

Eテレの 『ニュースで英会話』 を見てたわけ。


で、そこに たまたま首相が写っていたのね。



そのニュース番組内で、野田首相の演説を解説していたアナウンサーの言葉から、一部を引用。


Japan is not willing to compromise in disagreements with its neighbors. 
→日本は近隣諸国との論争で妥協しない 

The attempts to use unilateral power and threats to achieve selfish ends are not in accordance with the fundamental spirit of the United Nations Charter.  
利己的な目的を達成するために一方的な力や威嚇を用いる試みは、国連憲章の基本的精神に合致せず、受け入れられるものではありませんし、人類の英知に反するものだ。


僕が 興味をもった “単語” が2つある。


そのひとつは “willing” (喜んで、自発的に)。



will は“意思”を表し、
ここでは will+ing の形で使われている。



では、

僕らはどうして “will” を未来形として学ぶのだろう? ・・と、

僕が言いたいのはこうだ。


過去形・現在形は分かる。
それらは、すでに確定したことを語っているのだから。


しかし、未来は違う。


人間には 未来を確定的に語ることはできない。

となれば、
過去形・現在形・未来形と 横に並べていいものだろうか? 

・・というのが前提ね。



そもそも、

英語圏の人たちに“因果律”は通じない。


一見似てはいるけど、彼らが語る“因果律”( causality )とは、
「原因」→「結果」という関係性の上での因果なのであって、

いわゆる「因果はめぐる」といったニュアンスが無い。(・・おそらく)


だから、日本語の 「因果応報(いんがおうほう)」 をいくら説明してみても、


彼らに伝わるのは、せいぜい

「悪い原因がありました。だからこうなったんだとさ。」 ちゃんちゃん♪


はい、おしまい。



・・てな具合。


ここいらのことを詳しく書けば、

きっと 『キリスト教文化圏』 がどーたらこーたらといった話になって、
ぜんぜん面白くないんじゃないかと思い直したので、ばっさり省略。



未来は“自分の意思”がつくるもの。 “will”と言ったら “will”。

これが、欧米の(というか米国人的な) 『 人の意思が語らせる未来 』 のカタチ。



と、

どうだろう?


いまの日本人はどうか?




意志の力を語る人は、確かに多いけど、

どうにも “原因” を自分の外側に求める人が多くはないか?



我が身に降りかかる “悪因縁”(あくいんねん、良くない原因) を

“善因縁”(ぜんいんねん、良いきっかけ) に変えていく意志の力を

心の底から信じきっている人がどれほどいるというのか?




そう考えてみると、


日本人にとっての “will” に該当する単語とは、

ひょっとすると 『覚悟(かくご)』 ということになるのではあるまいか?



ま、そんなふうに思った次第。




そして、

もうひとつ 気になった単語というのは


“selfish”(わがままな、自己中心的、利己的)。



西洋では

“自分のことしか考えないこと” を自己中心的(selfish)といい、

日本では “周囲の人のことを考えないこと” を自己中心的という。



このニュアンスの違い、お分かり頂けるだろうか?


この辺になると、

やっぱり山本七平さんあたりの本から引用したくなるんだけど・・




省略。


そのかわり、「ヒント」。


英語の “基本動詞” の中で、応用範囲が極めて広い単語に

 get, have, take, put の4つがある。



素晴らしいことに、ほとんどの動詞表現は、おおむねこの4つで代用ができる。



「ほとんどの動詞表現」 ということは


「ほとんどの文章と言葉」 が、この4つで “こと足りる” ということ。




で、


この4つをまじまじ見つめると・・

いずれも “所有” をあらわすニュアンスが濃厚なことに気づく。


get(得る、受け取る、もらう…)

have(持つ、受ける、帯びる…)

take(取る、受ける、使う…)

put(置く、据える、込める…)



何が言いたいか?



早い話、彼らの “意思表現” の基本は“所有の所在”が我にあるか、

それとも、それが 他者にあるのかを基本とする。


これに対し、


僕らの国の言葉は、形容詞が “主語” のように思えてくるほど

「私」、「僕」 といった “主語” の落ちつき場所がムツカシイ。



参考 : 『初級日本語』に導入されている形容詞の分析



なんて、書いてみたけど

言いたいことは そっちでもない。




「意思の力」、「明確な自我」とは何でしょうね?

そろそろこの辺で、一度 考え直す時が来てはいませんかね?


・・ってことです。



以上、


「 willing 」「 selfish 」の2つの単語から

心に浮かんだことをメモしておく次第です。


→“ミキティーさんの英語と『コミュニケーション力』” に移動

2 件のコメント:

  1. 他に以前日本に留学にきていたルーマニアの友人に言われたのは
    その方はchildishというのも言われていましたね。
    なるほどって思ってしまう自分がいました。
    他人依存型がまわりには多いのだろうか。

    日本の文化はわきまえの文化ともいえ、
    謙譲語があり、尊敬語等々があり
    立場により呼び方も変わる。
    自分と相手の立場をわきまえておりますよと
    相手に伝えることをよしとしており、
    それをできない人には嫌悪感を感じる、分をわきまえていないから。

    自我の確立よりも、自分の立場を考えることを重きのおいた文化で育てられてきたということも一因の一つかという気もします。

    だんだんそういった日本文化もうすれ(いい悪いは別にして)変わってきてはいると感じますが

    ふと文化的背景が思い浮かんだので、心にうかんだことを意味なくつらつらと書いてしまいました。

    いつも おもしろい観点で いろいろな角度からのお話、なるほどと読ませていただいてます。
    ありがとうございます。

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    1. コメありがとうございます。

      >日本文化もうすれ

      ですよね~。

      かつての日本文化の美風や伝統など、素敵な“日本”ってのは薄れ薄れてほとんど消滅状態。
      ・・にも関わらず、国際化という名の『無国籍文化』が根を張っているのがスゴイよね~コワイよね~情けないですよね~と、わめいてるわけです。

      childish 、、ぉふ(/o;)

      削除

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